eros nakazato



                                      玉座の空言

見えるものと 見えないもの 地下に眠る もしくは虚空に漂う微塵
手に触れる確かな感触 充満する見えないものの抵抗 咆哮する陰翳 

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GREEN MAN (大蓮寺 川越市元町2-8-25)
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鉄iron,真鍮brass,石stone,苔,砥草moss、霧mist

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人間はなんて多くのものを持ち暮らすのか。ものを沢山背負い込み動けない動物になっている。
 この地球上に棲む生き物の仲間としての植物の存在がずっと気になっている。植物は何も持たず、ただ一個の物として生きている。特に苔は光と水があれば生きていける。光と水であの美しい緑をつくりだしていることの神秘。まるで大気に緑が隠されているのではないだろうかと思えてくる。
 私はできることなら緑の植物になりたい。この地球という星の生態のことを想像してみる契機になることを願って、大蓮寺境内の空に
風と 光と 水を受けて グリーンマンをまわす…。
開場時間:9:30〜18:00

https://www.megurogajoen.co.jp/event/wanoakari/

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https://www.megurogajoen.co.jp/event/wanoakari/
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六曲一隻 「新月の光と闇」 静水の間
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なんでも明らかにしたいという人間の欲求が
大量の光をつくり闇を追いやろうとしているが・・・
闇と光は親子のよううなもの、光と闇は戯れて私たちに千変万化の風景を見せてくれている。
月の満ち欠けは、宇宙の暗黒を背景にしてくりひろげられる一大スペクタクル巨編です。
人間がまだこの星に現れる以前の太古より、遥か彼方の未来までくり返しくり返し、
空に紡がれる儚い糸のように・・・
この静水の間のぐるりと小壁には、小山大月 画伯による薄の原。武蔵野の心象。
草葉に遊ぶ虫たちの音が聞こえてくるようです。
薄の葉の弧の連続は波、穂は白波の立つ海原のようでもあり、そんな牧原に私は一頭の馬を放した。
馬は天と地を行き交ういきものであり、古より人間とは深い縁を持つ生き物です。
この馬は、詩人友川カズキさんの言葉、一千行詩「地の独奏」をまとっています。
この詩はうたう、これは血の独奏であり、心のカノンである。
これは友川さんの生の直立の叫びである。
この一千行の言霊のエネルギーを宿して馬は、静かにこの海原に立つ。
そして、そこに一匹の蠅。
人間の勝手は、このいきものを忌み嫌うものに落としめているが、
そんなことはない、尊いひとつの命である。
馬は蠅に尋ねる「あなたは誰だったのですか?」
無音の風が薄の牧原に吹く・・・

ここに座してみてください
まわりにはいくつもの鉄の箱船が漂っています
大樹の洞の闇に棲むであろうものたちを私は想像します。
闇は光(想像)の母です。
無限の世界が眠っています。
新月の無明の後ろにはいっぱいの光が溢れています。
陰翳礼賛
IMAGINE・・・

2015年文月 中里繪魯洲


IMG_1873.jpg生体の器官を覗くようです 百段階段 百段怪談ではありません!




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馬のち.JPG寂しさの歌   金子光晴
                    (1895~1975・愛知県生まれ)

   
国家はすべての冷酷な怪物のうち、もっとも冷酷なものとおもはれる。
それは冷たい顔で欺く。欺瞞はその口から這ひ出る。「我国家は民衆である。」と。    
     ニーチェ 『ツァラトゥストラはかく語る。』


       一

どっからしみ出してくるんだ。この寂しさのやつは。
夕ぐれに咲き出たやうな、あの女の肌からか。
あのおもざしからか。うしろ影からか。

糸のようにほそぼそしたこころからか。
そのこころをいざなふ
いかにもはかなげな風物からか。

月光。ほのかな障子明かりからか。
ほね立った畳を走る枯葉からか。

その寂しさは、僕らのせすぢに這ひ込み、
しっ気や、かびのようにしらないまに
心をくさらせ、膚にしみ出してくる。

金でうられ、金でかはれる女の寂しさだ。
がつがつしたそだちの
みなしごの寂しさだ。

それがみすぎだとおもってるやつの、
おのれをもたない、形代(かたしろ)だけがゆれうごいてゐる寂しさだ。
もとより人は、土器(かわらけ)だ、という。

十粒ばかりの洗米をのせた皿。
鼠よもぎのあいだに
捨てられた欠皿。

寂しさは、そのへんから立ちのぼる。
「無」にかへる生の傍らから、
うらばかりよむ習ひの
さぐりあうこゝろとこゝろから。

ふるぼけて黄ろくなつたものから、褪せゆくものから、
たとえば 気むづかしい姑めいた家憲から、
すこしづつ、すこしづつ、
寂しさは目に見えずひろがる。
襖や壁の
雨もりのように。
涙じみのように。

寂しさは、目をしばしばやらせる落ち葉炊くけぶり。
ひそひそと流れる水のながれ。
らくばくとしてゆく季節のうつりかわり、枝のさゆらぎ
石の言葉、老けゆく草の穂。すぎゆくすべてだ。

しらかれた萱菅(かやすげ)の
丈なす群れをおし倒して、
つめたい落日の
鰯雲。

寂しさは、今夜も宿をもとめて、
とぼとぼとあるく。

夜もすがら山鳴りをきゝつつ、
ひとり、肘を枕にして、
地酒の徳利をふる音に、ふと、
別れてきた子の泣声をきく。

        二

寂しさに蔽われたこの国土の、ふかい霧のなかから、
僕はうまれた。

山のいたゞき、峡間を消し、
湖のうへにとぶ霧が
五十年の僕のこしかたと、
ゆく末とをとざしている。

あとから、あとから湧きあがり、閉ざす雲煙とともに、
この国では、
さびしさ丈けがいつも新鮮だ。
この寂しさのなかから人生のほろ甘さをしがみとり、
それをよりどころにして僕らは詩を書いたものだ。

この寂しさのはてに僕らがながめる。桔梗紫苑。
こぼれかかる霧もろとも、しだれかかり、手おるがまゝな女たち。
あきらめのはてに咲く日陰草。

口紅にのこるにがさ、粉黛(ふんたい)のやつれ。――その寂しさの奥に僕はきく。
衰えはやい女の宿命のくらさから、きこえてくる常念仏を。
……鼻紙に包んだ一にぎりの黒髪。――その髪でつないだ太い毛づな。
この寂しさをふしづけた「吉原筏。」

この寂しさを象眼した百目砲。

東も西も海で囲まれて、這い出すすきもないこの国の人たちは、自らをとじこめ、
この国こそまず朝日のさす国と、信じこんだ。

爪楊枝をけずるように、細々と良心をとがらせて、
しなやかな仮名文字につゞるもののあはれ。寂しさに千度洗われて、
目もあざやかな歌枕。

象潟(きさがた)や鳰(にお)の海。
羽箒(はぼうき)でゑがいた
志賀のさゞなみ。
鳥海、羽黒の
雲につき入る峯々、

錫杖(しゃくじょう)のあとに湧出た奇瑞(きずい)の湯。

遠山がすみ、山ざくら、蒔絵螺鈿(らでん)の秋の虫づくし。
この国にみだれ咲く花の友禅もやう。
うつくしいものは惜しむひまなくうつりゆくと、詠嘆をこめて、
いまになお、自然の寂しさを、詩に小説に書きつづる人々。
ほんとうに君の言うとおり、寂しさこそこの国土着の悲しい宿命で、寂しさより他なにものこさない無一物。

だが、寂しさの後は貧困。水田から、うかばれない百姓ぐらしのながい伝統から
無知とあきらめと、卑屈から寂しさはひろがるのだ。

あゝ、しかし、僕の寂しさは、
こんな国に僕がうまれあはせたことだ。
この国で育ち、友を作り、
朝は味噌汁にふきのたう、
夕食は、筍のさんせうあへの
はげた塗膳に坐ることだ。
そして、やがて老、祖先からうけたこの寂寥を、
子らにゆづり、
櫁(しきみ)の葉のかげに、眠りにゆくこと。

そして僕が死んだあと、五年、十年、百年と、
永恆の末の末までも寂しさがつゞき、
地のそこ、海のまはり、列島のはてからはてかけて、
十重に二十重に雲霧をこめ、
たちまち、しぐれ、たちまち、はれ、
うつろひやすいときのまの雲の岐れに、
いつもみずみずしい山や水の傷心おもうとき、
僕は、茫然とする。僕の力はなえしぼむ。

僕はその寂しさを、決して、この国のふるめかしい風物のなかからひろひ出したのではない。
洋服をきて、巻きたばこをふかし、西洋の思想を口にする人達のなかにもそっくり同じようにながめるのだ。
よりあひの席でも喫茶店でも、友と話してゐるときでも断髪の小娘とおどりながらでも、
あの寂しさが人人のからだから湿気のように大きくしみだし、人人のうしろに影をひき、
さら、さら、さらさらと音を立て、あたりにひろがり、あたりにこめて、永恆から永恆へ、ながれはしるのをきいた。

          三

かつてあの寂しさを軽蔑し、毛嫌ひしながらも僕は、わが身の一部としてひそかに執着していた。
潮来節を。うらぶれたながしの水調子を。
廓うらのそばあんどんと、しっぽくの湯気を。
立廻り、いなか役者の狂信徒に似た吊上がった眼つき。
万人が戻ってくる茶漬の味、風流。神信心。
どの家にもある糞壺のにほいをつけた人たちが、僕のまわりをゆきかうている。
その人達にとって、どうせ僕も一人なのだが。

僕の坐るむこうの椅子で、珈琲を前に、
僕のよんでる同じ夕刊をその人たちもよむ。
小学校では、おなじ字を教わった。僕らは互いに日本人だったので、
日本人であるより幸はないと教えられた。
(それは結構なことだ。が、少々僕らは正直すぎる。)

僕らのうへには同じように、万世一系の天皇がいます。

ああ、なにからなにまで、いやになるほどこまごまと、僕らは互いににていることか。
膚のいろから、眼つきから、人情から、潔癖から、
僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいていることか。

         四

遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもってきたんだ。
君達のせゐじゃない。僕のせゐでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。

寂しさが銃をかつがせ、寂しさの釣出しにあって、旗のなびく方へ、
母や妻をふりすててまで出発したのだ。
かざり職人も、洗濯屋も、手代たちも、学生も、
風にそよぐ民くさになって。

誰も彼も、区別はない。死ねばいゝと教へられたのだ。
ちんぴらで、小心で、好人物な人人は、「天皇」の名で、目先まっくらになって、腕白のようによろこびさわいで出ていった。

だが、銃後ではびくびくもので
あすの白羽の箭(や)を怖れ、
懐疑と不安をむりにおしのけ、
どうせ助からぬ、せめて今日一日を、
ふるまひ酒で酔ってすごさうとする。
エゴイズムと、愛情の浅さ。
黙々として忍び、乞食のように、
つながって配給をまつ女たち。
日に日にかなしげになってゆく人人の表情から
国をかたむけた民族の運命の
これほどさしせまった、ふかい寂しさを僕はまだ、生まれてからみたことはなかったのだ。
しかし、もうどうでもいい。僕にとって、そんな寂しさなんか、今はなんでもない。

僕、僕がいま、ほんたうに寂しがっている寂しさは、
この零落の方向とは反対に、
ひとりふみとゞまって、寂しさの根元をがつきとつきとめようとして、世界といっしょに歩いてゐるたった一人の意欲も僕のまわりに感じられない、そのことだ。そのことだけなのだ。 

(昭和20・5・5 端午の日) 
                             
――『落下傘・1948年・日本未来派発行所刊』より――
画 縦2m×横10m
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                     Giving voice to bear /熊の声を聴け
                         自然の象徴としての熊。
                      自然はたくさんの贈り物をしてくれている。
                          自然と人の関係は難しい。
                          人も自然の一部である。

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                     2011.3.11
                      人間だけがこの地球を独占するわけにいかない
                      原子力発電をやめる選択を決断し
                      そこから全てを発想する    
                       さようなら原発   

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Echigo Tsumari Art Triennale 2012 縁結び田楽行列

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馬山車/ゼロ号 horse festival car the ZERO
H3600 W2000 L4000  杉板 鉄

縁結び 田楽行列

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十日町 まつだい商店街 しちんち祭り 8月26日

出演: 勘緑 + 木偶舎、チング・ドゥル、和太鼓ユニット 光、いわき勿来工業高校フラガール部

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